2012年4月24日火曜日

ワシントン大学


昨年シアトルに来てからずっとさぼっていた、ワシントン大学のレポートをしよう。

ワシントン大学は世界の大学ランキング(THE)で25位に位置し、ノーベル賞受賞者を多数擁する医学部と、地元にマイクロソフトやアマゾンの本社、ボーイングの組み立て工場などを抱えるため、こうした大企業と関係の深い工学部の人気が特に高い。キャンパスは、シアトルの他にタコマとボゼルにあるが、ほとんどの学部はシアトルのキャンパスにある。(ちなみに日本の大学として最高順位の東大は30位。)

4月は桜がきれいです。

(充実した図書館設備)
この大学に来て、まず最初に関心したのは、図書館の素晴らしさだ。学内には小さなものを含めると30近い図書館が存在するが、主に学部生が利用するOdegaard Undergraduate Libraryと、大学院レベルの学生が利用するSuzzallo & Allen Librariesの二つの規模が大きい。蔵書の充実度はもちろんだが、各フロアーにはスキャナー付きのPCが設置されているなど、利用者の利便性もよく考えられている。

スキャナー付きのPCスペース
しかし何よりも素晴らしいのは、これらの図書館には、1フロアー全体が議論のためのオープンスペースとして確保されていることだ。書き込みのできる壁やホワイトボードが随所に置かれ、学生はそれらを自由に利用しながら議論をすることができる。PCプロジェクターや大画面の液晶モニターも多数設置されており、ノートPCを接続して、自由にプレゼンテーションの練習も行なえる。日本にもこうした空間を備えた図書館があるのかもしれないが、私は知らない。この空間で、活発に議論を展開している学生の様子を見たとき、これこそが「アメリカの力」を生み出している理由の一つに違いないと私は強く感じた。

図書館のフリースペース
現代の情報化社会では図書の電子化も加速度的に進んでいるのだから、これからの大学の図書館は、蔵書を蓄えるのではなく、こうした「空間の充実」を図ることを目指すべきであると思う。しかしこのようなことを言うと日本では、誰もが電子書籍の利用に精通しているわけではないという反対意見が出て、その結果、両者を折衷したような中途半端なモノができあがる。思い切って踏み切ることができないこうした日本的折衷の態度が、日本をいつまでも「二等国」にしている原因だと私は思う。敢て言おう、切るべきものは切り、全体の平均的向上ではなく、一部の飛躍的跳躍を目指さなければ、日本の将来は先ぼそるばかりだ。

(まじめで積極的だが、基礎学力は高くない。)
学生は非常にまじめで、積極的だ。また、ワシントン大学の学生であることに対してのプライドも高い。私は2002年にボストンカレッジにも研究員として滞在したことがあるが、ここでも学生は非常にまじめだった。おそらくアメリカの学生は、一定レベルの大学である限り、勉学への取り組みは、積極的でまじめなのだろうと思う。

この理由は、アメリカの場合、非常に多くの学生が教育ローンを使って、自分で学費を支出しているからではないかと私は考えている。アメリカの平均的学費は、州立大学で1万ドル、有名私立になると3万ドル~4万ドルという額になる。高額な学費をローンを利用して自分で払い、将来は返済しなければならない以上、おのずと積極的に勉学に取り組むようになるのは当然と言うべきだろう。同時に、大学のサービスや教員の質に対する学生の評価も厳しいものになっている。

しかし、今回多くの学生と接してみて意外に感じたのは、基礎学力については、決して高い方ではないということだ。私は工学部に所属しているので、学生はほぼ全員が理系なのだが、彼らの数学やサイエンスに関する基礎学力は、日本の一流レベル大学の平均的な学生と比べと、むしろ低いと言ってよい。(裏を返して言えば、基礎学力の高い日本の学生は、やる気さえあれば、アメリカの学生など比較にならないほど伸びる可能性がある。)

さらに言うと、こちらの研究者や教員の研究レベルや授業内容も、決して驚くほど高いわけではない。英語のハンディが無いと仮定するならば、日本の研究者でも遜色なく通用すると思う。ただしこちらの研究者のプライドは驚くほど高く、日本からの研究者は一般に、卑屈なほど低姿勢である。(日本人研究者のこうした態度の主要な原因は、英語の能力不足にある。英語による意思の表現に不自由があるため、どうしても控えめになってしまうのである。)

それでは、学生の基礎学力が高いわけでもなく、研究者も日本人と同程度のレベルでありながら、なぜアメリカの科学・技術は、世界のトップレベルであり続けているのだろうか。それには少なくとも2つの理由があると私は考えている。