2012年4月25日水曜日

アメリカ人には英語のハンディがない


OECDの世界学力ランキング(2009)で、日本の数学は9位、アメリカは31位、日本の科学は5位、アメリカは23位だが、「自信」はアメリカが1位という結果が出ている。アメリカ人のこの「自信」は一体どこから来ているのだろうか?それはGDPでアメリカが1位だということに加えて、アメリカ人には、事実上の世界共通語である英語のハンディがないことも大きな理由だと私は考えている。

アメリカには世界中から多くの外国人が集まっている。大学にも留学生や外国人研究者の数は非常に多い。大学でアメリカ人研究者や学生の様子を見ていると、英語が堪能ではない外国人を見下すような態度が見受けられる。そしてこうした態度をとるアメリカ人に共通しているのは、英語の能力と専門分野の能力とは直接関係がないことを理解していないということだ。言い換えれば、彼らは留学生や研究者の英語のレベルで、専門性のレベルを計り、自分たちの優越性を感じているのだ。

しかし科学・技術の現場でも、英語の運用能力が重要であることは間違いない。毎日大量に発信される研究論文は、全てが英語で、研究現場でも英語でコミュニケーションすることが大前提になっている。如何に日本人の基礎学力や研究内容が優れていても、英語を母国語としない日本人は、世界に情報を発信したり、世界の状況を把握しようとする際に、どうしても時間差が生まれてしまう。さらに日本の英語のレベルは劣悪でもある。仮に世界の学問の中心が中国に移ったとしても、極めて「非科学的」な中国語が学問の共通語になることは考えられない。これからも英語が世界の共通語である状況は、100年以上の単位で続いて行くことだろう。こうした状況で日本が「学問のガラパゴス」にならないための方法は、英語教育を根本から改める以外他に方法はない。小学校から大学まで、国語(日本語)以外の全ての教科書を英語にし、教科として英語を教える教員を、全てネイティブスピーカーに代えて行くような改革をしなければ、日本人の英語のレベルは劣悪なままであろう。私自身の学生時代のことを振り返っても、自分自身が書けない・話せない教師に英語を習って、どうして生徒である我われが話したり、書いたりできるようになるというのだろうか。そういうことは絶対に起こらないのである。しかし全てを折衷化してしまう日本の精神的風土では、こういうドラスティックな改革はとうてい現実化し得ないのも事実である。そして日本は、せっかく高い基礎学力を持ちながら、世界から徐々に取り残され、「学問のガラパゴス」となって行くのかもしれない。

2012年4月24日火曜日

アメリカを一等国にしているのは、優秀な外国人


アメリカの科学・技術を世界のトップレベルにしている二つ目の理由は、優秀な外国人がアメリカに集まりやすくなっていることだ。アメリカの大学や研究所を見ると、そこで研究に従事している外国人の多さに驚かされる。一見して分かるのは、中国人の多さである。次に韓国やインドの研究者も多い。医学系では日本人も目立つ。正確には統計資料を見ないと分からないが、アメリカの大学や研究所のレベルが高いのは、アメリカ人が特別に優秀だからなのではなく、優秀な外国人が多数アメリカの研究機関に来ているからではないかと思う。

確かに第2次世界大戦以後、アメリカは科学・技術の研究環境として世界で最も魅力的な場所だった。このため多くの優秀な研究者がアメリカに集まる潮流が出来上がった。現在もその名残で、多くの優秀な外国人がアメリカに来ている。しかしこの傾向がこれからも続いて行くかどうかは分からない。アメリカの経済は疲弊している。したがって、特に直近の利益を生み出すかどうか分からないサイエンスに資金を当て続ける余力が、これからもアメリカにあり続けるとは到底思えない。アメリカの経済が疲弊している最大の原因は、工業製品の品質の低さであり、さらにその原因は、一般的なアメリカ人の「イージー、すなわち雑な仕事ぶり」に根ざしている。イージーな性質は、現代アメリカ人の一般的気質なので、これが突然変化することは到底考えられない。したがってアメリカ経済はこれから益々疲弊して行くことになるだろう。それはまたサイエンスを支える資金の枯渇を招き、結果として優秀な外国人はアメリカに来なくなるのではないかと思う。

しかし見渡すところ次の世界の中心地はまだどこにも定まっていないようだ。経済状況から言えば、中国の可能性が高いが、現在の政治体制が続く限り、中国ではサイエンスは発展しない。現在でも科学・技術の世界の中心がアメリカにとどまっているのは、次の行き場がないからに他ならない。中東に起こったような革命的な民主化が中国で成立すれば、一気に世界の研究者は経済状況の良好な中国になだれ込み、アメリカの時代は終焉することになるだろう。

釘は出ても打たれない


学生の基礎学力が高いわけでもなく、研究者も日本人と同程度のレベルでありながら、現状ではアメリカの科学・技術が世界のトップレベルである一つの理由は、「突出」を認める気風がアメリカにはあるからではないかと思う。「出る釘は打たれる」という言葉があるが、日本では他人より秀でた才能をさらに伸ばすのではなく、芽のうちに摘み取ろうとする社会的圧力が働く傾向が強い。しかしアメリカでは逆で、こうした芽が出たら、それを伸ばそうとする気風と社会のシステムが整っているように思う。私は今回アメリカに来て、改めてこちらの工業製品の質の悪さに辟易しているが、唯一アップルのiPadだけは素晴らしいと思う。文房具から自動車にいたるまで、日本の製品と比較すると、アメリカの製品の質は非常に低い。(ただしアメリカ人の多くは、アメリカの工業技術は、今でも世界一だと思っている。)iPadも、ほとんどの部品と組み立ては韓国や中国で行なわれていて、アメリカ製であるのはスティーブ・ジョブズという天才の「アイデア」だけだ。しかし、日本との違いは正にこの点にある。アメリカにはスティーブ・ジョブズのような傑出した人物を世に出す社会的な気風があるが、日本にはない。ソニーやトヨタの品質は素晴らしいが、個性やセンスは感じられない。開発「チーム」が皆で作った折衷的な匂いが漂っている。高度成長期の時代から、日本の品質管理の高さは世界に聞こえているが、「新しい」製品を生み出していく「傑出した個性」が今の日本にはない。突出や傑出を認める気風が日本にも醸成されるか分からないが、出来なければ日本は、これからもアメリカで開発されたアイデアの猿真似を繰り返し、品質だけは素晴らしいがセンスのない製品を造り続けて行くことになるだろう。(しかしそれでも実用面では、日本製品の方がずっと良い。iPadを除いては。)

ワシントン大学


昨年シアトルに来てからずっとさぼっていた、ワシントン大学のレポートをしよう。

ワシントン大学は世界の大学ランキング(THE)で25位に位置し、ノーベル賞受賞者を多数擁する医学部と、地元にマイクロソフトやアマゾンの本社、ボーイングの組み立て工場などを抱えるため、こうした大企業と関係の深い工学部の人気が特に高い。キャンパスは、シアトルの他にタコマとボゼルにあるが、ほとんどの学部はシアトルのキャンパスにある。(ちなみに日本の大学として最高順位の東大は30位。)

4月は桜がきれいです。

(充実した図書館設備)
この大学に来て、まず最初に関心したのは、図書館の素晴らしさだ。学内には小さなものを含めると30近い図書館が存在するが、主に学部生が利用するOdegaard Undergraduate Libraryと、大学院レベルの学生が利用するSuzzallo & Allen Librariesの二つの規模が大きい。蔵書の充実度はもちろんだが、各フロアーにはスキャナー付きのPCが設置されているなど、利用者の利便性もよく考えられている。

スキャナー付きのPCスペース
しかし何よりも素晴らしいのは、これらの図書館には、1フロアー全体が議論のためのオープンスペースとして確保されていることだ。書き込みのできる壁やホワイトボードが随所に置かれ、学生はそれらを自由に利用しながら議論をすることができる。PCプロジェクターや大画面の液晶モニターも多数設置されており、ノートPCを接続して、自由にプレゼンテーションの練習も行なえる。日本にもこうした空間を備えた図書館があるのかもしれないが、私は知らない。この空間で、活発に議論を展開している学生の様子を見たとき、これこそが「アメリカの力」を生み出している理由の一つに違いないと私は強く感じた。

図書館のフリースペース
現代の情報化社会では図書の電子化も加速度的に進んでいるのだから、これからの大学の図書館は、蔵書を蓄えるのではなく、こうした「空間の充実」を図ることを目指すべきであると思う。しかしこのようなことを言うと日本では、誰もが電子書籍の利用に精通しているわけではないという反対意見が出て、その結果、両者を折衷したような中途半端なモノができあがる。思い切って踏み切ることができないこうした日本的折衷の態度が、日本をいつまでも「二等国」にしている原因だと私は思う。敢て言おう、切るべきものは切り、全体の平均的向上ではなく、一部の飛躍的跳躍を目指さなければ、日本の将来は先ぼそるばかりだ。

(まじめで積極的だが、基礎学力は高くない。)
学生は非常にまじめで、積極的だ。また、ワシントン大学の学生であることに対してのプライドも高い。私は2002年にボストンカレッジにも研究員として滞在したことがあるが、ここでも学生は非常にまじめだった。おそらくアメリカの学生は、一定レベルの大学である限り、勉学への取り組みは、積極的でまじめなのだろうと思う。

この理由は、アメリカの場合、非常に多くの学生が教育ローンを使って、自分で学費を支出しているからではないかと私は考えている。アメリカの平均的学費は、州立大学で1万ドル、有名私立になると3万ドル~4万ドルという額になる。高額な学費をローンを利用して自分で払い、将来は返済しなければならない以上、おのずと積極的に勉学に取り組むようになるのは当然と言うべきだろう。同時に、大学のサービスや教員の質に対する学生の評価も厳しいものになっている。

しかし、今回多くの学生と接してみて意外に感じたのは、基礎学力については、決して高い方ではないということだ。私は工学部に所属しているので、学生はほぼ全員が理系なのだが、彼らの数学やサイエンスに関する基礎学力は、日本の一流レベル大学の平均的な学生と比べと、むしろ低いと言ってよい。(裏を返して言えば、基礎学力の高い日本の学生は、やる気さえあれば、アメリカの学生など比較にならないほど伸びる可能性がある。)

さらに言うと、こちらの研究者や教員の研究レベルや授業内容も、決して驚くほど高いわけではない。英語のハンディが無いと仮定するならば、日本の研究者でも遜色なく通用すると思う。ただしこちらの研究者のプライドは驚くほど高く、日本からの研究者は一般に、卑屈なほど低姿勢である。(日本人研究者のこうした態度の主要な原因は、英語の能力不足にある。英語による意思の表現に不自由があるため、どうしても控えめになってしまうのである。)

それでは、学生の基礎学力が高いわけでもなく、研究者も日本人と同程度のレベルでありながら、なぜアメリカの科学・技術は、世界のトップレベルであり続けているのだろうか。それには少なくとも2つの理由があると私は考えている。